−現在、作曲家として活動されていますが、音楽はいつ頃から習い始めたんですか? |
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小さい頃から、日本で習っていました。その頃の文集にもピアニストになりたいって書いていたくらいです。4歳の時に両親がバイオリンや、ピアノ、バレエ教室に見学に連れて行ってくれたんです。そこで、「一つ選びなさい」って両親に言われて、ピアノを選んだんです。自分で選んだっていう自覚があったから、「やらされている」というイメージは全然なかったですね。そのころから、両親は4歳の子どもに選択権を与えて、人格や個性を尊重してくれていたんです。
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−その後、小学校3年間のアメリカ生活でもピアノを習っていたということですが、日本とアメリカのピアノ教育の違いというのはありましたか? |
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アメリカで習った先生に共通していたのは、音楽は心で豊かに感じて、楽しむものだからと言って、レッスンが終わるとポピュラーソングや映画音楽などを弾かせてくれました。日本の場合は技術習得がメインです。それは大切なことなのですが、一日中ずっとそればかりでは、やはり途中でいやになっちゃうんですね。でも、アメリカではレッスンに行くことが楽しくて仕方がなかった。楽しむことに主眼を置いた教育に小さい頃出会えたのは幸運でした。
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−その後、高校大学と音大に進んでいらっしゃいますが、それは決して順調な道のりではなかったということですが?
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私は将来クラシックのピアニストになるって決めて、これまで頑張ってきました。それなのに、「手が小さすぎるからプロは無理です」と言われたんですね。そう言われたことが物凄くショックで、手を手術することも考えました。でも、小さい手でもやれることはあると考え直して、真剣に練習してきたんですが、やはり限界もありました。それで、とりあえず高校にはピアノ科に入って、でも入学直後に転科することにしました。だから、作曲科とか指揮科とか色々なところを転々としましたね。今から思うと、いろんな可能性を私に提供してくれたいい機会だったと思ってますけどね。でも当時は「お先真っ暗」でした。ピアニストになることだけを目指して頑張っていましたから。その後の挫折は数限りないんです。中学生以来、多くの挫折に立ち向かっていく中で、自分の夢をずっと追い続けるというのが私に課せられた課題なんだなって今は思いますね。夢を追い続ける過程で試練があったからこそ力がついていったんです。知らず知らずにいろんなことがインプットされていたんですね。無駄なことなんてひとつもないんだと思うんですよ。
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| 「世界は一つ 私たちと他のいのち(世界)との境が消える」 |
−その後、「石田桃子アンドグローバル・ルネッサンス」としてバンド活動していらっしゃいますが、これはどのようなテーマのもとで活動しているんですか?
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| 会社名も「グローバル・ルネッサンス」なんですが、直訳すると「地球維新、地球の復興」という意味です。今は一つの国や地域エゴじゃなく、もっと地球規模で、とりあえず今は地球中心に物事を考えていくべきだと思います。それで、グローバル・ルネッサンスというバンドや会社を設立(1994年)しました。国や地域の境界線というものは本来なくて、すべて繋がっています。例えば、どこかの国で大気汚染があったとしたら、他の国々まで汚染が広がっていってしまいますね。これを避けるために、常に地球全体の意識で生活していく必要があると思うんです。 |
| −地球全体の意識を常に持っていることの重要性は、石田さんの活動からも伺えますね。例えば、タイ難民キャンプでも、1980年からボランティアをしていたということですが、どのような活動をしていたんですか? |
| 物を運ぶプロジェクトでした。日本のみなさんから届いた古着や、募金で買った文房具、職業訓練に役立つもののような救援物資を届けていました。今でこそ多くの方が海外でボランティア活動していますけど、当時は珍しかったんですよ。方法なんて何もなかった時代だったけれども、英字新聞を読んで、現地の支局に国際電話をかけて自分で飛んで行ったんです。当初は受け入れ先も何もなかった時代でしたけど。難民キャンプに個人での出入りが出来なくなり、現地に発足したばかりのNGO(JVC・国際ボランティア亜鉛ター)に受け入れ先になってもらいました。 |