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―――華道に興味を持たれたきっかけは、どのようなものだったんですか? |
「もともと父と母が園芸好きで、私も物心ついた頃から見よう見まねで庭の花を育てていました。それから10年、20年と経って、大学に入ったある日、いけばなの先生がお花を生けているテレビ番組を見て、自分が育てていた花がこんなふうにして部屋を彩り、飾り、素敵な雰囲気になるということを知り、『自分も習ってみようかな』と思って、大学2年のとき、何の気なしにいけばな教室に通い始めたのが、華道の世界に入ったきっかけでした。それからお花の世界が面白くて、どんどんのめり込んでいきました。
大学を卒業すると、アパレルメーカーに就職しました。でも、『自分が一番好きなことではない』と思って3カ月で辞めてしまいました。スーパーマーケットやハンバーガー店など、いろいろなところでアルバイトをしながら、同時進行で花の仕事を行っていました。ちょうどこの頃から、画廊に通うようになり、『空間』という仕事に興味をもちはじめて、『いつか自分も個展がしたい』と思っていたところに、チャンスが訪れたのです。最初の個展は、お花ではなく、実は、土を素材にしたもので、その土の個展が『美術手帖』などで批評され、まずは美術関係の方々から認められて、ディスプレイや会場構成など、花だけではない仕事を頂くようになりました。そうして必死にやっているうちに、気がついたら、今のような状態になっていったのです」
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―――華道家として、これほどまでに成功された理由について、ご自身ではどのようにお考えでしょうか? |
「
今と比べると、小さい頃の私は引っ込み思案で、人とコミュニケーションをとるのも苦手でした。野球などのスポーツよりもクラシックレコードが好きな、ちょっと変わった子どもでした。でも、父や母は、『省吾、好きなことをやりなさい』と私の個性を認めてくれていて、両親がそういう教育をしてくれたことが大きかったと思います。それからは、自分が『これは好きだな』と思うことを一生懸命やるようになりました。その道を究めるという言い方は堅いですが、『人に決められたわけではない、自分で決めた』ということが重要なのだと思います。私も、だからずっとやってくることができました。
もうひとつ、2009年に50歳になりましたが、これまでいろいろな紆余曲折がありました。出る杭は打たれます。嫉妬、妬み、嫉み、いろいろなことがありましたが、そういうもの全部を自分の肥やしにしたのです。打たれれば打たれるほど、不思議なことにその分、余計にエネルギーとなって、自分の中で消化できました。ネガティブなものもエネルギーにして、自分で目標を持ち、それを追求しながら、何が何でも実現させようと取り組んできました。
あとはやはり、美しいものに囲まれて育ったことでしょう。花、音楽、映画、建築、インテリア、旅行にもたくさん行きました。美しいものが、いつも自分のすぐそばにあって、その中に身を委ねていました。それが培われて、今に至っているのだと思います」 |
| ――――華道をさらに普及していくために、最近では、どのようなお仕事に取り組まれていらっしゃいますか? |
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「最近では、音楽や舞台でのコラボレーションという新しい挑戦も始めました。フジ子・ヘミングさんなど、クラシックのいろいろな方々と舞台で、演奏に合わせてお花を生けるというパフォーマンスのコラボレーションも行っています。舞台美術の演出でも、野村萬斎さんはじめ、いろいろな方と取り組みを進めています。
また、年に何度も展覧会を行っています。百貨店などでも行っていますが、最近では、花と歴史的な建築などとのコラボレーションも増えていて、2010年には京都や九州地区で行う予定です。展覧会やコラボレーションは、自分が興味をもっていることはもちろんですが、いろいろな方々が大勢おいでになるので、街おこしになるのです。
例えば、10周年を迎えた目黒雅叙園での展覧会では、7万人ものお客様がお見えになりました。食事やお土産も買っていかれますので、まわりの商店街や飲食店も活性化して、経済効果につながります。こういう時代なので、企画を行う側も、展覧会などを行うと費用が…、などと思われるかもしれませんが、美しいものを見ることで、何十倍、何百倍も自分に、周辺に跳ね返ってくるのです」 |
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