今泉 清保(いまいずみ せいほ)
フリーアナウンサー/フリーライター
1968年、青森市生まれ。大学卒業と同時に、「やらなかったことを後悔するのが嫌だ」という思いから、福岡放送にアナウンサーとして入社報道記者としてドキュメンタリー番組の制作にも携わる。現在は、フリーとして、 「レディス4」(テレビ東京)の司会など、各局の様々な番組で活躍中。
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Vol. 12 『私たちに何ができるのか』
(2011年03月15日)
今回が最終回です。医療の現場が大変な状態であること、その背景に、長年にわたる国の医療政策の軽視があることは、おわかりいただけたのではないかと思います。
私たち患者には何ができるのか。そのヒントになる事例があります。兵庫県立柏原(かいばら)病院では、地元のお母さん達が地域の小児科医療の再生に力を発揮しました。
兵庫県の丹波地域には、小児救急に対応できる病院として、県立柏原病院、柏原赤十字病院(日赤病院)、兵庫医大篠山病院がありました。ところが06年4月、これまでに紹介した理由で大学病院が医師を引き上げ、地域に7人いた小児科の勤務医が4人に減ってしまいました。
柏原病院の和久祥三医師は、病院の壁を取りはらい、輪番制で重症患者を診るシステムを作って対応しました。それぞれの病院に小児科医を残しつつ助け合おうとの配慮でしたが、現状を理解していなかった県は柏原病院に小児科医を集めることを決め、県が対応するならと日赤病院の医師が引き上げられ、日赤病院は小児科から撤退しました。さらに07年3月、柏原病院の2人の小児科医のうち1人が、県の人事で院長に指名されたことで、輪番制は崩壊しました。
疲れ果てた和久医師は柏原病院を離れることを決意しますが、その前に、自分が退職することや、丹波地域の小児医療の現状、産科が分娩の受付を停止することを地元の新聞に記事を書いてもらって公表したのです。
当初、記事の反応は鈍かったようですが、記事を書いた記者が子育て中のお母さんを集めて座談会を開いたことで事が動きます。きっかけは、子供のぜんそくの発作で柏原病院に駆け込んだある母親が語った、和久医師の働きぶりでした。
その母親が病院に行ったのは夜8時でしたが、病棟には小児患者が溢れていて、応急処置のあとちゃんと診察を受けられたのは深夜2時、入院が決まって病棟に移動したのは午前4時だったそうです。母親は疲れて眠ってしまったのですが、起きたら枕元には和久医師の置き手紙があり、当の和久医師はそのまま普通に病棟の回診をこなしていたというのです。
それまで文句を言っていた他の母親達も、さすがに「辞めないで欲しい」とは言えなくなったそうで、これが「県立柏原病院の小児科を守る会」の発足につながっていきます。
母親達はまず、柏原病院小児科の常勤医の増員を求める署名活動を始めます。活動をしながらメンバーも15人に増え、5万5千人を超える署名が集まりました。07年6月、兵庫県庁に出向いて署名を渡しますが、県健康局長の返事は「医師不足は丹波地域に限ったことではない」「常勤医を派遣することは難しい」というものでした。けんもほろろの対応です。
でも、母親達はあきらめませんでした。自分達でできることは何かと考え、3つのスローガンを作ったのです。
1 コンビニ受診を控えよう
2 かかりつけ医を持とう
3 お医者さんに感謝の気持ちを伝えよう
当時の小児救急は重症患者が2割で、ほとんどは気軽に訪れた軽症患者でした。母親達は、ステッカーを作ったりビラを作ったり絵本を作ったりして、気軽な受診がいかに現場に負担をかけるかを地域に広めていきました。このことで、時間外の受診が半分以下に減りました。
また母親達は、手紙や折り鶴を模造紙に張った「ありがとうメッセージ」を和久医師に届けました。「辞めないで」ではなく「ありがとう」の気持ちを込めたメッセージの数々に、和久医師は涙し、柏原病院に残ることを決めたのです。さらに、活動を知った医師が「柏原病院で働きたい」と名乗りを挙げ、常勤医を複数確保することができました。県が投げ出したことを、母親達が実現させたわけです。
先ほどの3つのスローガンは、小児科に限ったことではありません。私達の誰もが、今日からすぐにやれることです。
医療問題は他人事ではありません。そして、医療がこの状態ですから、介護の現場はもっと大変です。たとえ今自分が健康でも、いずれ親の面倒を見なければならないし、その前に自分が倒れるかもしれないし、子供が病気になるかもしれません。国の医療体制の貧困さは、結局は自分達に返ってくるということを、多くの人にしっかり認識して欲しいと思っています。
<参考資料>
「県立柏原病院の小児科を守る会」
「医療崩壊はこうすれば防げる!」「医療再生はこの病院・地域に学べ!」(ともに洋泉社新書)