|
第11回 「車椅子からの出発」
鈴木さんの車椅子を漕ぐ手に力が入り、ゆっくりスロープを登り、壇上に。
そして、はじめの言葉はこうだ。
「まず私を語るために、ある辛い出来事をお話しなければなりません。しかし、今日の講演を悲しい、不幸の話で終わりにするつもりは、ありません。皆さんのこれからの人生、未来につながるお話が出来れば、と思っております。」
今回で、何回目になるだろうか?
この某大手製薬会社さんは、毎年鈴木さんへの講演のお願いが来る。
そして今回も是非またお話をお聞かせ頂きたい、という事だった。
「8月2日(日)、あの日は周りの空気に肌が焦がされる程、暑い日でした。」
手に持ったコップをやさしく置いて、鈴木さんは語り始めた。
もう21年前の話しだが、微かながら鈴木さんの目が曇ったように見える。
三井銀行の行員時代、19歳でミス・インターナショナル準日本代表に選出され、その後モデルとして活躍。その日はちょうど22歳の夏、あるポスター撮影のため、甲府(山梨県)の桃園で撮影をした帰りだった。仕事が終わった後にもらった桃が、本当に甘かったのをよく覚えている。
カメラマンの運転、助手席にはデザイナーさんが乗っていた。
中央高速道路、大月から東京方面へちょうど10分ほど走ったところだった。
突然、車がガードレールに激突。
撮影の時の晴天が嘘のように、悲しいまでに雨が降っていた。
助手席のデザイナーは道路に投げ出され、死亡。
鈴木さんは車体後部の窓ガラスを突き破り、100m先の路面に叩きつけられ、頸髄を損傷。
不運にも救急車が40分来なかった。
鈴木さんは、ミス・インターナショナルの仕事を通して出会った鈴木伸行氏とは交際3年目を迎え、3週間後には結納を控えている時期だった。同行したデザイナーは、2歳になる長男と、もうすぐ生まれる第二子がお腹にいる奥様に桃をお土産に購入したりなどして、みな幸せな気分だった。そのはずだった。
鈴木さんが目を覚ましたのは、病院のベッドの上。
意識が朦朧としていたが、ときおり目を覚ましては泣いていたそうだ。
その涙が点滴と同じ黄色い涙だったという。
頚椎の骨を矯正する手術の前、まだ鈴木さんの意識は朦朧としていて目を開けることが出来なかったが、突然の生温かい、伸行氏のキス。
「生きろ…」
そこに込められた言葉にならない一筋の希望を思うと、胸が締めつけられ、心が震えた。
会場は息を呑み、静まりかえっていた。
両足の自由を失い、生きる気力を失いかけながらも、懸命にリハビリを続けられたのは、伸行さんの愛と励ましがあったからだ、と鈴木さんは語る。
当初の予定より1年ほど遅れ、結婚。「車椅子の花嫁」となった。

鈴木さんは言う、
「見た目で、その人の悩みは分からない。悩みの大きさは比べられない。」と。
「障害」は身体上の問題もあるけれど、実は人から見えないところに、本当は困るところがあったりする。人間関係で悩んでいて、生活する上で障害になることだってある。
懸命なリハビリの中、鈴木さんはひとりでよく病院の5Fのスロープまで登った。掃除のおばさんさえ来ない所だ。汚い窓から富士山が見える。それがキレイだった。そして他に人が来ないから、そこで泣いたりもしたのだそうだ。
本当に辛いところは見えないことが多いのである。
しかし、どこかをなくして、他の何かを得た、ということがあるとも言う。
「ある部分では劣っているけれど、ある部分では優れている。」
そういった考え方が出来れば、以前の自分や他の人と比べるものではないのだ。
そして、今の社会に望むバリアフリーやご自身が手掛けている車椅子のデザインの話、射撃で挑戦をしたアテネ五輪の裏話などをお話頂き、終始「生きること」「障害」「命とは?
」を考えさせられる1時間半だった。涙と感動と、そして一生懸命自分を生きる事の大切さを感じさせられる講演。
そんな思いが浮かび、帰り道でやけに背筋が伸びてしまった。
「障害」というものをもう一度考えてみてください。
(2005年6月20日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
|