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――豪太氏は11歳の時にキリマンジャロに登頂、そして2003年には、雄一郎氏とともに世界最高峰エベレスト山登頂、初の日本人親子同時登頂記録を達成していらっしゃいますが、豪太氏にとっての山登りとはどういうものなのでしょうか?
小さい頃、僕の父に連れられて、キリマンジャロや富士山、エルブルース等のいろいろな山に行くことができたのですが、その頃から山に行くということは旅することであったり、新しい世界に導いてくれるものであったと思います。
僕は競技としてのスキーは続けてきたのですが、競技というのは、「自分の中に新しい世界を探す」「相手との競技の中で自分を高めて新しい世界を探す」ものです。しかし、山というのは自分の内外両面で新しい世界を探せると思うんですよね。
山という新しい環境に身を置いた時に、自分がどういったことをするのか、それは自分を知ることであり、そこで起こる未知のことや周りの環境といった外の世界を知ることでもあります。山登りに関わる人々の数だけ、いろいろな文化を知ることでもあるし、とにかく新しい世界に山は導いてくれる。
そういったことが、山に登るということに対して僕が感じていることですね。
――昨年の雄一郎氏とのエベレスト山登頂は、大変印象的だったのですが、親子で登るといったことに対してはどのようなお気持ちだったのでしょうか?
エベレストの企画はもともと父が登ると言ったときに、「僕も是非同行したい。」と言ったんです。これは何故かと言ったら、三浦家のルーツというものがエベレストにあるような、そんな気がしたんですよ。
元々、父の三浦雄一郎が世界で有名になったきっかけというのは、エベレストにもあるし、勿論エベレストというのは、死と隣り合わせになった世界だっていうのは、その頃から分かっていたのですが、「何がそんなに人を惹きつけるのか?」「そんなに凄い世界があるのか?」「自分の命ならまだしも、他人の命まで巻き込んでも見たい世界というのはあるのか?」そういったことを凄く知りたくなってその衝動からでしょうか。
33年前に父がエベレストに行った時も、シェルパーが7人亡くなっているんですよね。それでも父はエベレストのスキー滑走というものを成し遂げました。勿論キリマンジャロとか、エルブルースに行った時に山では独特なことがあるんだ、と分かっていましたが、新しい世界という意味では、父をそこまで何が駆り立てたのか、とこのエベレストっというものに凄い魅力を感じたわけですよ。
ましてやそこに33年を振り返った父が一緒に登るということはそれだけで、親子って言うより、世代を超えたチャレンジというか、自分のルーツを探る、新しい世界でありながら、自分のルーツを探れる機会かな、そう思いました。
――エベレストの山頂付近には、生きて帰れなかった方々の遺体がそのままあると伺いましたが、肉体的にも精神的にも究極の環境で、「生」や「死」を意識する局面もたくさんあったかと思います。そんな中でも高いモチベーションを保ちつづけられたというのは、何がそうさせていたとお考えですか?
遺体ですか…、ミイラ化したものがありますね。たまにテントの切れ端かなぁ、と思ってみたら、96年に遭難した有名な登山家の遺体がウェアーごと風に揺れてひらひらしていたりですとか。彼は有名な登山ガイドなんですが、人を導くガイド自身がそういう状態になるというところ、それがベレストの持つ怖さです。僕は2つしか見なかったんですが、私どものテントの裏側にも遺体が発見されましたね。
現場に行ったら、高いモチベーションとうのはまず第一に山に登るということにあるんですけれども、その前に「生きて帰る」ということを優先させなければならないわけです。山の中で安全に帰ってくる、冷静な判断を怠らない、そうなると常に死を意識しなければならないんですよ。死を意識するほど、動物にとって高いモチベーションをあげてくれるものはないんじゃないか、と思います。
モチベーションという言い方は、ちょっと違うかもしれないのですが、人間や動物が持っている本能的な力、これをやらなきゃ生きていけないということがありますね。例えば、テントに着いてもうへとへとに疲れきった時であっても、そこで水を補給しないと、次の日には登れないし、生きていけないんですよね。どんなに疲れていても外に氷を取りに行ってストーブで氷を溶かし、水を作らなければならない。普段の生活からはなかなか分かりにくいですが、そこに死というイメージがあるだけで、どこからか力が湧いてくる、これが動物の本来の力なんでしょう。
また、「死」を意識するからこそ、「生」を意識する、というようなこともあると思います。山に行くのは、自分を高めるためだと思うのですが、死んだら元も子もありません。だから常に「死」を意識していなければならず、そうやって生き抜いていくことが、つまり「生」を知ることになるんです。勿論山に登ったことの名声だとか、そういうものは後からついてくると思いますが、もし名声だけを求めているのだとしたら、山には登れなくなってしまうと思います。「生」と「死」、その中で「自分はここまでやったんだ。」と感じることができるというのが、自分の山登りに対するモチベーションだと思います。
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