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−近鉄バファローズに入団して8年、米独立リーグも経験され、現役13年間で6球団を渡り歩いた佐野さんですが、やはり近鉄での活躍、野球を楽しんでいらっしゃる様子が大変印象的だったように思います。野球人生を今一度振り返ってみていかがですか?
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そうですね。最初に入団したチームが近鉄バファローズで、当時そうそうたるたるメンバーがいました。日本人メジャー進出の草分け、現在も現役選手として頑張っている野茂英雄投手とともに、仰木監督の下で実績を積みました。このチームの出会いが、一番大きかったですね。普段はみな趣味も違うし、考え方もまるっきり違うんですが、こと試合になったら、一丸となって勝つためにどうしたらいいのか、というのを凄く考える大人なチームだった。だからそのメンバーの中で野球をやりたい、という思いも新人の時からありましたし、結果を残せば認めてくれる環境なので、プレイの方も物凄くレベルが高かったですね。後々から嫌なことや様々な圧力を感じることもありましたけど、その時の仲間は今でも親交が深く、チームとしての絆は出来上がっていたと思います。
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| −チーム全体が勝つという目標、同じ方向を見ることが出来たというのは強いですね。 |
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そうですね。目標があっても自らがその方向を向くというのがなかなか難しいことですが、最初の頃の近鉄はものの見事にそれが出来ていた。ルーキーの僕や周りの若い選手にとっては凄くのっかかりやすかったですね。勿論ボスである仰木監督がいて、その下にコーチがいて、さらに選手の中でもちゃんと引っ張ってくれる人がいましたから。
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−チームのまとまりという意味では、リーダーの力が十分に関わるところだと思うのですが、仰木監督はどのようなリーダーだったのですか? |
監督は環境作りが抜群に上手かったですね。勿論勝つためにやるのですが、勝ちが決まれば、次は選手のためを考えてくれる方でした。体育会系の方だったら分かると思うのですが、上下関係が明確な世界です。普通監督は雲の上の存在なのですが、監督自らが選手と同じ目線に降りてきてくれるんです。個人のことをちゃんと理解してくれて、その選手がいいように考えてくれました。例えば、極端な話、あと何試合出たらこの選手にはボーナスが入る、ということも全部把握していた。それに、周りでは私生活の部分まで管理する監督やコーチがいた中で、監督の場合はとにかく勝つためにやってくれたら俺は文句を言わない、という主義でした。グランドの中で酒の匂いをぷんぷんさせようが、野球だけはしっかりやればいい、と。ただその代わり結果を出せなかったら、2軍に落とすし、使わない、という明確な答えもありました。
他の監督と比べても、非常に素晴らしい監督だったと思います。リーダーに必要な要素は「まずチーム全体の目標がある、つまり勝つこと。その元で、ちゃんと気配りができること。」だと思いますし、部下である選手達の信頼も厚く、選手自らが監督の期待に応えたいと皆思っていたわけですから、そう思わせる人間性の魅力という意味でもいい監督でしたね。まあ、選手の立場だったら、自分を使ってくれる監督は、皆いい監督ですけど。(笑)
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−確かに選手にとってはそうかもしれませんね。(笑)
そう言えば、テレビ「珍プレー、好プレー」では面白い一面も垣間見せて下さいましたが、意識されていたりしたのですか? |
あれは正直なところ、見ている人を楽しませようという気持ちは一切なかったんですよ。テレビに出るようになってからは、ちょっとそういう気持ちもありましたけれど、最初の頃はただ単に何もかもがうまく行っていて、僕自身が楽しめていたので、普段やっていることをたまたま映像に撮られたら、受け入れられたんですね。
ただそんな風にテレビに出ることで、多くの人に「佐野さん面白かった」と言ってもらったり、笑いの部分だけでなく野球をしている姿もちゃんと理解して喜んでくれる人も多かったので、だんだんみんなが喜んでくれるのであれば、プロとしても当然の行動だと思うようになりましたね。とにかく近鉄バファローズというのはほとんど全国ネットがないので、それを挽回したい、というのもあって、より目立とうとしていたのも事実です。(笑)
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| −近鉄でプレーをした後、中日ドラゴンズに移り、その後アメリカの独立リーグに行きましたが、アメリカに行くと決めたきっかけは何ですか? |
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中日で「クビ」と言われた時、まだ自分では出来ると思ったんですよ。その後日本でトライアウトを受けたけれど、どことも契約できなかった。だからまだ自分には出来るという気持ちと共に、なんとか日本の球団を見返してやろうと思いました。そして、ずっと憧れていたアメリカで野球がしたいと考え、アメリカに行ったんです。
実はね、95年に野茂が初めてアメリカに渡って、ちょうど日本シーズンが終わった10日ほどの休みでアメリカ旅行に行ったんですよ。ちゃんと申請しないで勝手に。後でだいぶ怒られましたが。(笑)その時にドジャースタジアムのグラウンドに立たせてもらって、その感動がずっと忘れられなかったんですね。そのシーズンでは60試合近く投げて、心身ともに疲れきっていたのですが、それでもまだ野球をやりたいと本気で思ったので、その気持ちがあったからこそ、アメリカ行きに踏み出したんです。でも現実はかなり厳しかったです。その経験があったからこそ、今があるんですが。
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−厳しい現実ですか…実際はどうだったのですか?日本とは随分と違いましたか? |
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そうですね。結局マイナーリーグのキャンプと独立リーグしか経験できなかったのですが、日本ではそれなりの成績を残していて、自分でもトップクラスだと思っていたので、とにかく面を食らいました。ちょっと精神的に弱くなった時期でもあって、自分よりだいぶ若い選手がガンガン速いボールを投げているのを見た時には、何もかもが良く見えてしまったんです。マイナーリーグは確かに競争が激しい。
そんな中でビックリしたことがあるのですが、様々な選手が集まってどんどん首を切られていくのに、グラウンドに出てくる選手が皆笑っているんですよ。目が輝いている。もっとピリピリして敵対心剥き出しでやるのかと思っていたのですが、全く違うんです。
キャンプと言ったら、学校の授業と同じで、大体どういうことをするのか分かっているので、めんどくさいというのが日本。それに日本ではチームが強ければいいのですが、弱い場合、監督やコーチの良くないところを色々言ったりするもの。そういうことがマイナーリーグでは全くなかったですね。
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