 |
― 一般の方は映画監督・黒澤明さんに関してはイメージがあると思いますが、
ご家庭ではどのような方だったのですか?黒澤家でのご様子などお話を伺えますか? |
父は、とにかく家でご飯を食べる事が好きな人で、外で飲んで帰ってくる、なんて事がなかったので、お客さんは映画人、芸能界の人もいるし、芸能界と全然関係ない人もいるし…。母は勿論、子供の私も毎日相当な人数の食事を作るのに忙しい。私は小学校2年生の時から料理をしています。毎日とにかく馬鹿みたいにお客さんが訪ねてきて、私はものすごい量のお手伝いをしていました。それに、全てにおいて、フェアー。年齢、性別、年収も職種もそういうことは何にも考えずに人付き合いをする親でしたから、ある日はイタリアのセレブ夫婦がうちに来ていたかと思えば、たまたま隣に住んでいたオジチャンとオバチャンが来ていたりとか。全然関係なかったんです(笑)。映画スタッフの人数なんて考えるだけでもすごい人数でしょ?随分と色んな人が出入りをしていました。それに父の仕事がら、映画の内容によっては、脅迫まがいのいたずらもあり、「娘を誘拐するぞ」というものもあったようです。だから私が小学生の頃は、学校以外は外出禁止になってしまったこともありました。映画とは切り離せない家庭でしたし、話せば色々とありますよ(笑)。
|
| ―お母様はどのような方でしたか? |
竹を割ったような人で、負けず嫌い。黒澤明も強い人でしたが、母も強かった。語調や使う言葉も二人とも強烈。父が負けず嫌いで、ああやって頑張って映画を撮ってきた人だから、弱い妻じゃ務まらない。 父は才能があって私が生まれる前からドンドン頭角を現していったわけでしょ。母も『姿三四郎』あたりから主婦のプロになろうって決めたんだと思いますよ。むしろ「家のことは自分が全部やってやるから、その代わりもっといい映画作らなかったらお前バカだ。」くらいに思っていたと思います(笑)。でも、奥さんに洋服も買ってもらって、ご飯も作ってもらって、親戚との付き合いから何もかもやってもらって、仕事だけしてていいよって言われて、それで旦那さんが仕事できなかったらどう思うかって話ですよね。私もときどき語調が強いと言われることもありますけど、何しろ強い人間ばかりの家で育ってしまったわけです。黒澤家は皆負けず嫌いですし。
母の私への最期の言葉は「黒澤明に負けるなよ」って。そう言って死んだのよ。
|
 |
| ―黒澤監督も、少女時代の和子さんと一緒に絵を描いてくれたり、赤を入れてくれたそうですね? |
それはね、母が私を置いていっちゃった時、父が私と遊ぶのに困って、仕方ないから絵を描いていただけなんですよ(笑)。だいたい面白がってやれることしかしない人ですし、自分のほうが夢中になっていたわけ。私の作った物語に赤入れ?それも仕事柄っていったら変だけど、誰のものだって赤を入れたと思います。皆さんインタビューとかで「いいお父さんだったよね」という話に帰結したがりますが、正直私の場合そんなのちっとも関係ない。私自身、すっごく不良だった時期もあります。反発するのが当たり前。親は全部映画に頭を奪われちゃって、
父は映画を撮ることしか考えてないわけだし、母だって手一杯。いくら子供のことを考えてると言ったって、人間のできる範囲なんて決まってるんですよ。何か相談をしても、最後には「アンタだって黒澤の血を引いてるんでしょ、自分で考えろ」と言われておしまいでした。
とにかく映画が中心にあった家。我が家には決まりがあって、父の仕事中はどんなに撮影期間が長くても、人の生き死にに関係する以外、絶対に電話を掛けてはいけなかったんです。「声を聞いたら里心がつくから」という、元来心配性の父の理由で。
だから私が思うことは、やっぱり人間には与えられた家があるということなんですよ。そこに生まれちゃったんだからしょうがない。とんでもない家だったけれど、そこでちゃんと知恵もついたし、工夫もできた。そうやって強く生き抜いてこれて、そのあと女1人で3人も息子を育てて、ある程度の映画衣裳デザイナーの地位まで頑張っていけたのは、やっぱり、負けず嫌いのおかげなんです。もう黒澤家の中の全員が競争しているわけですよ。家の中で(笑)。全然、家の中が安住の地なんかじゃない。「自分で考えろよ。どうにか工夫しろ」って言われちゃったら、それは自分で強くなってどうにかするしかないわけでしょ?黒澤明は家でも映画監督黒澤明なんですよ。そんな家で生きていくには、自分で強くなるしかなかったんです。 |