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―「天才子役」と呼ばれて、放課後、友達が遊んでいる中を撮影現場に1人通う日々。
当時の間下さんにとって子役の仕事とはどういうものだったのですか? |
子供の私にとって、放課後にもうひとつの違う学校に行く感覚。すごく楽しい場所でした。大人が考えるような『遊べずに仕事をして可哀想』という感覚ではなかったです(笑)。元々芸能界入りのきっかけは、母が友達から「自分の子供をモデルにしたいから事務所についてきて」と頼まれたこと。私はおまけで連れて行かれただけだったんです。正直、母も私が小学校に入るぐらいまで楽しめたらいいなという感じで。ところが、『がんばれ玄さん』がブレイクしてしまって、あれよあれよで、それからはあまり状況を考える閑がなかったですね。日々仕事が入ってきて、それを次々とこなす毎日になりました。でも、何でも興味を持つ子だった私はいろんな人に会えて、いろんな洋服を着られて、お芝居という疑似体験もできるのが純粋に楽しかったし、好きだったんですね。帰宅した後も、セリフを覚える努力はしていましたが、全く苦ではありませんでした。
誰かに強制されていた訳じゃないんです。例えば事務所が、「これは、このみにとって厳しい仕事かもしれない」と言った話でも、親だけで判断してオファーを断ることはなく、私に「どうする?」とちゃんと聞いてくれました。「こういう負担がかかる仕事だけど、あなたはどう思う?」と。事務所側は聞かなくてもいいと言ったらしいんですけど(笑)。親が、子供ながらも私を尊重してくれたんですね。でも、それ以外の日常では、芸能の仕事をしているからと私を特別扱いしたりなどしませんでした。それも私にとって良かったと思います。
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| ――中学入学を機に、芸能活動を自粛されましたが、あれもご本人の意思ですか? |
そうです。小学校時代から親も事務所もなるべく学校に行かせる方針だったのですが、それでも私は中学に行ったら、ちゃんと勉強をして、ちゃんと学校生活をしてみたいと思う気持ちがどこかにあったんですね。だから中学に入るのを機に、芸能の仕事を自粛したいと小学校5〜6年で考えていました。部活もやってみたかったんです。学校の授業はまだしも、仕事をしながら、部活は時間的にもできないでしょ?(笑)。そんなこともあり、中学時代は卓球部、ギター部、合唱部、とにかくいろいろと顔を突っ込みました。実はその中でも、卓球は私学の都大会で3位になったんですよ。新聞に名前が載った時は嬉しかったですね。運動部の独特の雰囲気ってすごく楽しくて、数年ですがとても濃い時間でした。当時の卓球部の友達は、今も大事な友達です。
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| ――間下さんの場合、縁があって幼い頃から芸能界入りをし、そのままやり続けることも可能だったのに、中学に入る時に、自分の意志で自分のしたい事を改めて考えられました。その後、写真の勉強のため、アメリカに単身留学をされたりと自分の道を自分で切り開いていらっしゃいますね。 |
私は目標がないと動けない人間なんです。例えば高校生の時、「大学に行くのはわかってるけれど、何学科に行くのか分からない」という方がいますね。そういうのが自分としては嫌なんですね。自分はこうなりたいって目標を持ってから進みたい。その代わりすごく考えました。昔はお芝居をしていたけれど、違うことで表現するのは何だろうと模索している時、たまたま父の趣味の写真が引っかかったんです。
高校の進学コースにいたので、友達はみな大学受験。私だけ「写真の専門学校に行きます」って言うものだから、担任の先生はビックリしてましたね。人がどう思うかとか、人目を気にする方もいますが、私は人が何を言おうといいと思いました。自分の人生だし、興味があることに突き進んで行けば必ず何かがあると。留学をしようと決めたのは、専門学校を卒業して写真の仕事をはじめてからです。自分がお金をもらう程のスキルを持っているのか、という疑問を抱えて。「このままじゃいけない。自分を変えたい」というきっかけが、留学につながったんです。 |
| とにかく何か目標をもたないと、人って頑張れないんじゃないかな、と私は思うんです。いろんな出会いがあるし、目標って途中で変わることもある。途中で変わっていいから、とりあえず目標を置くことが大切なんじゃないかなと。私は、相田みつをさんの「あのねえ 自分にエンジンかけるのは 自分自身だからね」という作品が好きなんです。やっぱり、エンジンをかけるのは自分自身なんですよね。 |