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――小学4年で少年野球を始め、中、高、大、そして社会人と、まさに野球一筋ですが、
プロを意識されたのはいつごろだったのでしょうか。 |
「これでも文武両道でして(笑)、そこそこ勉強もできたんですよ。親戚には医者が多かったので、中学の頃は僕自身も医学部志望を決めていました。だから、実は春日部高校に進んだ時は野球をやるつもりはなかったんです。ところが勉強一本のつもりで選んだのに、入学早々に野球部に入部してしまった(笑)。なぜでしょうね…『野球がそうさせた』としか言いようがないんですよ。“魔性の力”みたいなものに惹きつけられたんだと思います。入部したのは部員10人ほどの小さなチーム。その分、1年生の時から試合に出させてもらったり、チームメイトに恵まれたこともあって、のびのびとした環境が良い方向へ作用していたんでしょうね。埼玉県代表になるなど結果を残すことができました。そういった小さな成功の積み重ねで、より野球に特化していきたいという気持ちが高校3年間で増幅されました。ですから、いよいよ進路選択という時には、『やっぱり医学部より“野球部”だろう!』と(笑)、六大学野球で有名な慶應大学へ進学を決めました。
大学時代は2年からレギュラーになれて3年生の秋に新記録(東京六大学秋季リーグでは、1シーズンに6本塁打、22打点)も作ることができました。でも、まだその時は、野球を職業にするという決断はできなかったですね。それなら野球をやりながら仕事をしようと。それで社会人野球の名門・東芝に就職したんです」
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| ――社会人野球を経て実際にプロ野球の世界に入られたのが26歳。高卒や大卒ルーキーが当然のプロ野球界にあって、かなりのチャレンジだったと推察します。 |
「周囲からは当時、常軌を逸した“蛮行”と見られて、誰も“チャレンジ”とは呼んでくれませんでしたね(笑)。本音をお話すれば、あの時なぜ社会人を辞めてプロ入りを決意できたのかわからないんです。職場に関しても、広告部という良い部署で環境に不満はまったくありませんでした。ただ、都市対抗野球(社会人野球日本一を決める大会)で1年目に準優勝、3年目には優勝を経験できました。一般的に、社会人の野球部でメインで活動できるのは3年ほど。僕も4年目に現役を引退して仕事に就く、つまり競技としての野球に対してピリオドを打つ場面を迎えました。その時すでに26歳です。プロ野球界からすれば高卒や大卒の18歳、22歳の方が戦力としては魅力的です。でも、僕はプロ入りを決意していたんですね。ありがたいことにヤクルト(現東京ヤクルトスワローズ)にお声をかけていただいて、やらせてもらうことになりました。
あの時の心境をあえて言葉にするなら、人生を“掛け算”で作りたかったんだと思います。『1』やれば『1』増えることを積み上げていく堅実で確実な人生がある一方で、自分の働きかけに対して劇的に未来を変えていける、掛け算的に進行する人生に手応えを感じたかった。それまでの僕が歩んできた道は、野球で自分の進路を大きく変えられる人生で、最後もやはり野球を選んだということかもしれません。体が覚えている快感があったし、チームで難関を突破した時のなにものにも変えがたい高揚感や連帯感を忘れられなかったんですね」
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| ――1985年にヤクルトスワローズに入団されて、同年5月11日の対阪神戦(神宮)でプロ野球史上20人目となる、公式戦初打席でホームランを放つ大活躍でした。 |
| 「デビューは華々しかったんですけどね。そのあとが続きませんでした。年齢もあったのかもしれないけど、自分の場合は故障に泣かされました。馬力やスタミナが自分のセールスポイントだと思っていたのに、それを表現できない肉離れに年中襲われて、走ることもままならない。ストレスが溜まったし、苦しかったし、悔しかったですね。好調な時には、将来に対して良いイメージを描いて夢は膨らむけど、やはり自分が想定しない逆境やトラブルは必ず待っているものです。自分はその課題を乗り越えて結果を残す前にプロ野球をやめることになりました(89年かぎりで現役引退)」 |