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「負けてたまるか!」

濱宮 郷詞(はまみや さとし)

福祉講演

 この度、「講演依頼ドットコム」さんのご好意により、コラムを掲載させて頂くことになりました濱宮郷詞と言います。末永くよろしくお願い申し上げます。と言いつつ、実際コラムと言っても何を書けばよいのか。文才の無い私は戸惑いを感じながら書いている次第でありまして、…恐縮しているというのが現実です。結局、何を書こうかと考えたところ、講演で話しているお話を含め、自分自身が車椅子生活になってしまい色々体験した事をここに書かせてもらおうと思います。それが私を知ってもらうことの一番近道だと思います。そして、読んで頂いている中で、きっと何かを感じてもらえると思います。文才無く読みづらいかも知れませんが皆さんお付き合いください。

第3回 母子家庭

昭和四十三年六月〜

 父が死んだ後は、生活が一変してしまいました。専業主婦であった母が働かなければなりません。そのせいで、私は通っていなかった幼稚園に入れられることになりました。当時は1年保育も当たり前の時代でした、私は2年保育の途中、10月頃からの入園となりました。

 朝、私は先生しかいない時間に登園させられました。母の出社の時間に合わせるわけです。園児は私以外誰もいません。誰もいないので職員室に連れられ先生方の中に一人ぼっちでした。先生もまばらでやけに職員室が寒かったのを覚えています。そして、私に先生がビスケットをくれたのを覚えています。 きっと慣れない私を気遣ってくれたのでしょう。おいしかったなぁ・・。トウハト・・。確かそんなビスケットでした。でも、淋しかった・・・。自分だけ他の園児とは違う。妙に淋しかった事だけが頭に残っています。


 幼稚園の時代のことはよく覚えていません。不思議ですね。父の死の時は鮮明に覚えているのに。幼稚園時代に覚えているのは、前述したような自分だけ他の園児とは違うんだ。という妙に淋しかった事だけが頭に残っています。それもきっと父親が死んだショックのひとつだと思います。


 幼稚園時代の事を思い出せないので少し母との思い出を話させてください。父が無くなる少し前の事だったと思います。いや、ずっと前かもしれません。姉が幼稚園か、小学校の遠足の時です。姉が楽しそうにリュックにお菓子を詰めていたのでしょう。それを私が羨ましそうにしていたんだと思います。姉の遠足の当日、母は私を近くの神社に連れて行ってくれました。 神社に行くには階段があり、その階段の下でお弁当やお菓子を食べました。二人っきりの遠足です。 ペコちゃんのチョコレートがやけに美味しかった事を覚えています。本当においしかったなぁ。 今は懐かしい母との思い出です。 皆さんもきっとそんな「思い出話」のひとつくらいお持ちではないでしょうか。 私の母との一番の思い出です。

 母は、父が死んでからというもの、女手ひとつで必死に働いてくれました。私の母は「親の愛」に恵まれず、というより、「母親の愛」に恵まれず育った人でした。早くに祖母とは早くに離れたようです。母は自分の幼少の時のつらい思いがあるのか、私と姉に対する「子どもへの愛」は私達にとって非常にあり難いものでした。学も無い母はただひたすら子どもを守る為、昼も夜も必死に働いてくれました。必死でした・・・。私はそんな母の後姿をずっと見て育ちました。いつの日か、雨漏りする家を「僕が大工さんになって家を建ててやる」と言っていたそうです。


昭和四十五年四月〜(小学生時代)

 そんな強い母の愛情に守られ、母子家庭とはいえども何ひとつ不自由のない生活を送らせてもらいました。しかし、父の日や父親参観日は淋しいものがありました。私の父親は決して来ないのですから。ある年、父の日の似顔絵を描くことになり、先生の配慮なのか、描かなかったと思います。誰の絵を描いたかも覚えていません。父親の絵で覚えているのは、父が生きていた時に姉が描いた父親。私が「父のにがお絵」を描いた記憶はありません。私が覚えているのは、父の日に一度だけ、こみあげる涙をこらえたという事。あれはいくつの時だったのでしょうか。確か、小学2年生位の時だったと思います。それは、父親参観日に「私を見にくる父親はいない。」そんな思いがふと浮かんだ時のことでした。

 私は運動が大好きで得意なヤンチャな男の子でした。クラスに一人二人いたでしょ。そんな男の子。そんなタイプです。休み時間になると校庭に5センチ位のマットを敷き、跳び箱を飛ぶ時の飛び板(踏切版?なんというんだっけ?)をセットして、走ってきて踏み切って空中一回転して「ピタッ」と立っていました。小学2年生位の頃だと思います。それを見ていた担任に「あなた今すぐ中学校に行き体操を習いに行きなさい。それと、今日から毎日校庭を2週走って帰りなさい。」そう言われた事を覚えています。その先生はどういう意味で言ったのでしょうね。真意は何なのかは分かりませんが聞いてみたいな。

 小学校の高学年になると、学年でサッカーが流行り始めましてね。当時のサッカー少年団って奴ですね。 今ほどサッカーがメジャーなスポーツではなく、野球がやりたくて余り好きになれなかったのですが、周囲の仲の良い友だちがほとんど始めていたので渋々でした。でも、6年生主体のチームでしたが5年生でレギュラーに入りました。

 そんな頃でしょうか、中学校陸上部の先生が我が家にチョクチョク来るようになりました。姉が中学校で陸上部に入ったからです。来ては、「お前は中学では陸上競技の棒高跳びをやらせるぞ!」って暗示をかけられていました。実は、野球をやりたかったのですが、素直な私は「そおかぁ、僕は棒高跳びにむいているのかぁ」って陸上部に入った訳です。「野球をやるには足腰を鍛えなきゃっ」とも思っていたので、中学校では陸上、高校では野球と決めたわけです。


昭和五十一年四月〜(中学生時代)

 中学校に入学すると何のためらいも無く陸上部で棒高跳びを始めました。やはり、勧誘した先生の目は対したもので、私は3年生になると県大会で優勝するくらいになりました。 夏、秋と優勝できました。本当を言うと春の大会も出場していれば優勝出来たはずなのですが、2年生の冬の練習をサボり過ぎて、顧問の先生のお叱りで春の大会には出してもらえなかったのです。

 そういえば、サッカーでも県大会で優勝したんです。小学校の時にサッカーをやっていたと書きましたが、陸上部だったのですが、そのおかげで中学校でもサッカーの試合に借り出されたんです。で、県大会の決勝で「濱宮の好守に阻まれる」と写真に載ったのです。借りだされた身で私だけが大きく写真になった時はなんとも・・・サッカー部の皆に申し訳ないと言う気持ちでいっぱいでしたよ。 懐かしい中学時代の思い出です。

つづく


<濱宮 郷詞講師のコラム バックナンバー>

第 2回 父の死
第 1回 私は死にました
 
 

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