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Vol.34 「いのちの使い方」
子供ができてから、痛烈に感じること。それは、「いのち」というものの、奥深さ。「生」と「死」について、哲学的に考えてみた。本もたくさん読んでみた。
科学者、フリーマン・ダイソンは、映画の中で以下のように語った。
「この地球上にはじめての生命が誕生した頃、「死」はまだ存在しなかった。細胞は分裂こそすれ、寿命が尽きて死ぬことはなかった。生命がより複雑になってゆくためには、いくつかの要素が必要だった。その1番目が「死」。それこそが、未来が過去と違ったものになることを可能にしたのだ」
また、遺伝子研究で有名な科学者の村上和雄さんは語る。
「遺伝子には細胞死のプログラムも備わっています。遺伝子は細胞の誕生、生産だけでなく、その死までプログラムしていると考えると、生と死は対立概念ではなく、片方があってはじめてもう片方も成り立つ相補関係、つまりペアになっているということがわかってくるでしょう」
インディアンの世界では、こう言われている。
「人の正しい死に方は、生まれる時と逆にならなければならない。生まれる時は、人は泣きながら生まれてくる。しかし、死ぬ時には本人が大笑いして、周囲がその人と別れることが『嫌だー』と泣いてくれるのが最高の死に方」だと。
『いのちのバトン』(志村季世恵著)では、死を目前にした患者さんがこう語ったと記されている。「生まれるときは頭を下にして地球に落ちるようにして生まれてきた。いま死ぬ間際になり、頭を天井に向けてこの世から抜け出すように回っている」
生きるということと死ぬということが、つながっているのだと感じた。志村季世恵さんが、私が言いたかったことを、本の中に書いてくれた。「いのちの誕生と死。どちらも両極端なところに存在しているのに、どこかつながりがあることを感じています。死は終わりではない。死んだあと、私たち残された人の心に宿るあの「いのちのバトン」をどう説明したらいいのでしょう」と。
生と死は、本当に両極端なことなのに、うまく言葉ではいえないけれど、大きな視点でみると1つの流れになって、バトンのように何かを橋渡ししているような気がするのだ。
「いのち」について考えてみると、いま、ここに生かされていることの壮大さ、ありがたさをまざまざと見せ付けられる。生命の不思議とはよく言うけれど、イチバンわからないのが、「いのち」についてなんじゃないだろうか。
どんな科学者も、一番単純な細胞である大腸菌1つすら作れない。そんな細胞60兆個からなる自分の体を、いまどう使って、どう生きればよいのか、自分の「いのち」をどう生かすのがよいのか。そんなことを最近はよく考える。
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