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Vol. 63 「高校生の恐喝事件」
ある高校で、"カンパ"という名の恐喝事件が発生した。
加害者の生徒の親が「自分が子供の頃も恐喝をしていた」とコメントしたという。
まるで、人を恐喝していた事を悪いと思っていない、
まさに「この親にしてこの子あり」と感じる親の一言だった。
昔は悪い事をしてしまったが、反省して子供に躾をするのが親ではないのだろうか。
私が学生の頃にもカンパ(恐喝)はあった。
私が1年生の時の3年生が、シンナーやタバコを吸い、ものすごく怖い先輩が多く、
説教という名の暴力(いじめ)もあり、その怖さでお金を渡してしまった。
今としては情けない話だが、自分がジュース1本我慢すれば済むと思っていた。
勇気のある同級生が先生に話し、それからはカンパが無くなった。
自分がその一言を大人に相談できなかった事が情けない。
親の稼いだお金を、先輩に殴られるのが嫌で渡してしまった。
今考えると、その当時の自分は嫌な人間だったと思う。
しかし当然、自分が上級生になった時にはカンパや暴力はしなかった。
(1回だけ説教はしました。すみません…)
冒頭の言葉を言い放った親は、子供への躾をまるっきりしていないのであろう。
よく、躾に関して「うちは子供を自由に育てています」という言葉を聞くが、
その割には、躾を全て学校に任せる。
そしてそういう親に限って、何か問題があると学校に怒鳴り込む。
そんな親を見ている子供は、ことあるごとに教師に対して
「教育委員会に言ってやる」と脅して馬鹿にする。
これは自由に育てているのではなく、子育てや躾を「放棄している」のだ。
私の父親は子供の頃は大変厳しく、悪い事をすると裸で外に出された。
しかし強情だった自分は謝らなかったので、
最終的には母親に説得され、父親に謝罪し家に入れてもらった。
悪い事をすると殴られる事もあった。
しかし父は、絶対にものを使って叩く事はしなかった。
父も心と手に痛みを感じ、子供だけに痛みをを強いることはなかった。
それが愛情であり躾である。
猛獣使いではなく、子供を相手に躾をしているのだから、
愛情もなければならないし、ものを使って叩くことは考えられない事だ。
中学生になると、「お前はもう大人だ。自分で判断しろ」と言われ自由になった。
父親への怖さもあったが、それよりも信頼してもらっている父を裏切る事はできないと思い、
礼儀、挨拶などはきっちりした。
「自由」の裏には「責任」がある。
このような事を親が子供に伝えなければ、「自由に育てている」という言葉は
親が言ってはいけないのではないだろうか。
愛情を感じるからこそ、子供は良い方向に生きて行ける。
愛情のない躾は暴力である。
権利を主張をするのであれば、必然的に義務が伴う。
自由の裏には責任があるのだ。
大人がこのことを勘違いしてしまっているのではないだろうか?
今回の事件での親の言葉は、今の日本を表しているような気がする。
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