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Vol.
23 「あるあるの教訓」
フジテレビ系列である関西テレビの人気番組「あるある大事典」のねつ造問題。次から次へと暴露されて、とうとう番組そのものが打ち切られ、関西テレビは10年以上も続いたその時間枠を返上する騒ぎになってしまった。そして関西テレビの社長は辞任に追い込まれた。
総務省は事件の責任を孫請けの制作会社に押しつけているとして再度説明を求めるなど、関西テレビは針のむしろに座らされている。しかも総務相は電波を割り当てていることを背景に、放送局への規制を強化しようとしているようにも見える。
「あるある」はしょせんバラエティ番組であり、ねつ造とまでは言わなくても、ある程度の情報操作はよくあること、という冷めた見方もある。同じようなことは「あるある」に限らないということもまた次々に暴露されている。そして制作側は、「過剰な表現」とか「反省すべき点があった」とか、よくわからない弁解に終始している。新聞によれば、あるディレクターは「すべての嘘を排除したら、何も撮れなくなる」と語ったという。
テレビに限らず、雑誌などでとりわけ健康情報に関しては真偽の定かではない情報が氾濫している。「○○でガンが治った」などというのが典型である。本であたかも事実であるかのように書き、怪しげな薬を売って詐欺で摘発されたケースもある。
しかし、どの情報が事実でどの情報が事実ではないか、その判断を任されているのは本質的に視聴者や読者の側なのである。メディアが流す情報がいつも事実とは限らないという前提があるからだ。もちろんメディアが意識的に嘘をつくことはそれほど多いわけではない。メディアで働くほとんどの人間はそれなりに情報を伝える責任感も倫理観も持っていると思う。だから自分で正しいと思った情報を提供しようと努力しているはずである(ただバラエティなどでは「情報」を伝えているという感覚は弱いかもしれない)。
実は「自分で正しいと思った情報を提供する」というところに落とし穴がある。メディアは報じている出来事のすべてを知っているわけではない。そもそも、起きていることを「現在進行形」の形で報道できるわけではない。基本的に後追いで、しかも起きたことのごく一部を関係者から聞き取っているだけだ。つまりそれは事実のごく断片にしかすぎない。だから断片のつなぎ合わせ方を間違えば、本来の事実とは似ても似つかない「事実」を再構成してしまうこともありうる。また大きく間違うことは少なくても、小さな間違いは日常茶飯事だ。それはメディアの限界だ。
事実を映像で伝えるカメラでも、360度すべての映像を伝えているわけではない。360度どころかカメラの視角というのは非常に狭い。そこに写された情報とともに、「写されなかった」情報があるということを忘れてはなるまい。しかしわれわれは映し出された映像が事実のすべてであるように思いこむ。テレビの恐さがここにある。
ジグソーパズルにたとえるとわかりやすいかもしれない。メディアでも何でもピースをすべて集めることは不可能である。だからいくつかのピースを置いて、後は推論で補う。当然、間違いやすいピースも存在する。つまりそのピースをそこに置くことが正しいかどうかさえわからないことも多い。それでも推理し、事実を再構成したと言わなければいけないのがメディア人なのだ。だから当然間違いも起こりうるということが前提になる。
メディアで働く人間がその限界を意識しているかどうかにある。私自身の限られた経験から言えば、それを強く意識している記者や編集者は多くはない。自分が真実を知っていると信じている(思いこんでいる)人のほうが多いと思う。
だからといってメディアが世の中にとって重要であることが否定されてしまうわけではない。限界があるにせよ、メディアが伝える情報は、視聴者や読者が自分に必要な情報を選び出し、「事実」を再構成するのに必要だからである。インターネットで今までに比べると膨大な情報を手に入れることが可能になってきたため、テレビや新聞といった既存のメディアの重要性が薄れていることは確かだ。しかしインターネットですべての情報を検索することなど、誰にもできない。メディアが「ある程度」情報を選別してくれることで、われわれは「ある程度」信用できる情報を得ることができる。肝心なことは「ある程度」という限界があることをわれわれが知っていることだ。
情報を自分で判断する。それこそIT時代を生きる人々に必要なスキルである。
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